6月8日(金)に第48回研究会を行いました。出席者は森章司、金子芳夫、岩井昌悟、本澤綱夫、石井照彦の研究会員全員でした。目下の研究会の仕事は『目録』の原稿づくりです。もっともこの『目録』という名称はわれわれが考えている中身からすると軽すぎるので「総覧」とでもしようかという案が出ていますが、まだ結論には達しておりません。
ところで実際に原稿を書いてみると、今まで気づかなかったさまざまな課題点が浮かび上がってきています。『目録』には経の概要をも書き込みますが、経の中で釈尊自身が前世のことを語られる部分があり、われわれはそれを「回想記事」として処理することにしています。また経には釈迦牟尼仏の事績とパラレルな内容の、ヴィパッシン仏などの過去仏のことが語られる部分があり、これは「参考記事」として処理することになっています。しかし具体的な経文を「回想記事」と「参考記事」を分けることはなかなか難しいので、その基準をどうするかというようなことです。
あるいは釈尊が前世のことを語るなど、それは「神話の世界ではないの? その前世まで釈尊の伝記とするの?」という見方もあるでしょう。私たちはこの研究で釈尊の世界観までを議論をしようとは考えていません。とにかく原始聖典として認められている文献に記されていることは、丸ごと釈尊の事績としてとらえるという姿勢でやっています。
しかし例えばクッダカニカーヤ(小部)を含めた5つのニカーヤ(経蔵)やヴィナヤ(律蔵)は、パーリ仏教では「パーリ(聖典)」と認識されているので、例えばアパダーナ(譬喩経)やブッダヴァンサ(仏種姓経)などを含めたすべてを原始聖典として扱ってしまうと、確かに神話的なもので満ちあふれてしまい、史実としての釈尊の伝記から離れてしまう危険性があります。ですからパーリ仏教圏で聖典として認められてきたものの中から、われわれが原始聖典として扱うものを分別しなければならないということになります。漢訳聖典も同じです。
今までの研究では「大綱」的な基準を設定してやってきましたが、今になってもっと細かに規定しなければ処理できない具体的なケースがいくつも出てきているわけです。
机上で構想していた「大綱」では処理しきれないことが現れて、「施行細則」を定めなければならない状態になっているということで、この研究は『年表』と『目録』を作って最終報告書とすることになっていますから、まさにその最終段階に入った何よりの証左でしょう。