10月27日(金)に第43回「釈尊伝研究会」を行いました。出席者は森章司、金子芳夫、岩井昌悟、本澤綱夫、石井照彦の研究会員全員です。この研究会の結果、これからのこの研究の進め方について若干の変更がなされそうです。
今回の研究会では3つの資料集、すなわち、
(1)「『律蔵・受戒犍度』を中心とした釈尊伝資料集」(担当:岩井)
(2)「『涅槃経』を中心とした釈尊最晩年の事績資料集」(担当:本澤)
(3)「成道以前の仏伝資料集」(担当:金子)
の原稿執筆作業状況の報告と、
(4)「サンユッタ・ニカーヤ『有偈篇』の神たち」(担当:森)
の研究報告がありました。
(1)(2)(3)はそのままが『釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録』の1部となるものです。
この「目録」は釈尊の事績を記述する1万件ほどの経資料と律資料の文献名とその1つ1つの内容概要を釈尊年齢にしたがって配列するものですが、(1)は釈尊の菩提樹下での成道(35歳の雨安居前)から「十衆白四羯磨受戒法」が制定されてサンガが形成される(46歳の雨安居後)まで、(2)は釈尊が王舎城の霊鷲山で阿闍世王の大臣に七不退法を説く(78歳の雨安居後)ところから入滅(80歳の誕生日=80歳の雨安居前)までに相当し、(3)は前世から仏成道までの回想記事部分となります。
その他のサンガが形成された直後から霊鷲山で七不退法を説く直前までの、すなわち釈尊46歳の雨安居後から78歳の雨安居後までの釈尊の事績を記述する聖典は、(1)(2)(3)に含まれる資料以外の全原始仏教聖典資料ということになります。
これらも約半数ほどは、既刊の「モノグラフ」に掲載した【論文】【研究ノート】において、あるいは22号以降に掲載予定のいくつかの【研究ノート】のなかで、すでにその説時を推定ずみです。
したがってこれから作業を必要とするのは、上記の【論文】や【研究ノート】において取り上げられていない残余の経・律資料ということになります。そしてその手始めに取り掛かったのがサンユッタニカーヤ(SN.)の冒頭の有偈篇の「天相応」「天子相応」に収録されている経と、『雑阿含』と『別訳雑阿含』に含まれるその対応経です。それが(4)ということになるわけです。
ところが有偈篇の「天相応」「天子相応」に収録される経とその対応経には、その経が何時説かれたかという説時を推定する材料は皆無といってよいほど含まれていません。この3ヵ月くらいの間「森相応」も含めた370の経と格闘した結果、当初予想していなかった「サンユッタ・ニカーヤ『有偈篇』の神たち」という標題の論文にならざるを得なかったのはそのためです。
リード文に書いた「研究の進め方について若干の変更がなされそうだ」というのは、残余の経や律資料の説時推定作業は、ひょっとするといくら手間をかけても得られるところはほんのわずかという結果に終る可能性があり、森の年齢などを考慮すれば、これは許されないということを思い知ったからです。そこで、残された資料の説時推定作業は断念してもよいのではないかというのがこの研究会での問題提起です。
とはいいながら、それではこれら残された資料を『釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録』のどこに収録すべきか、そして内容概要はどうすべきかという問題が残されます。これらの問題を処理する備えがないわけではないのですが、それではこの研究に画竜点睛を欠くことにならないか、という心残りがあります。できるだけこの心残りを少なくする手段・方法はないか、これが喫緊の課題です。