8月22日(月)・23日(火)・24日(水)の2泊3日の日程で、夏休み合宿研究会を三浦半島の城ケ島において行いました。執筆中の【研究ノート12】「Dīgha-nikāyaと相応漢訳諸経の説示年代の推定」と【研究ノート13】「Majjhima-nikāyaと相応漢訳諸経の説示年代の推定」について討議しました。
このところ合宿が続いていますが、大きなテーマを総合的に検討する必要があることと、岩井昌悟研究員が忙しくて月例の研究会を開きにくくなっているためです。
今回のテーマはリード文に書いたとおり、2つの【研究ノート】の草稿を検討することでした。
この研究ノートは、Dīgha-nikāyaとMajjhima-nikāyaに含まれるすべての経典の、その対応関係と相応関係にあるすべての聖典を対象に、そこに登場する人物や仏在処、あるいは記述されている事項を材料にしながら、それがいつ(釈尊が何歳の時の、季節としてはいつごろに)説かれたものであるかを考究しようとするものです。
この作業の直接的な目的は、われわれがこの総合研究の最終目標としている『釈尊および釈尊教団史年表』に、できれば1つ1つの経がいつ説かれたかを書き込むためであり、またこれをもとに作成する『釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録』を編集するためです。この「目録」には聖典名だけでなく、その概要をも書き込むことにしてありますから、これが完成すれば自ずからに壮大にしてかつ詳細な「釈尊伝」が現れることになります。
Dīgha-nikāyaに含まれる経は34経、Majjhima-nikāyaに含まれる経は152経ですが、対応する『長阿含経』には30経、『中阿含経』には222経あります。そしてこれらに内容的に相応するSaṃyutta-nikāyaやAṅguttara-nikāya、漢訳の『雑阿含経』『別訳雑阿含経』『増一阿含経』に含まれる諸経と単行経典、それにVinayaと漢訳諸律を含めて、その細部を読み込んでは概要を作り、そのうえでそれぞれの経の「説時」を推定しようというのですから、たいへんな作業です。
しかしこのたいへんな作業も草稿段階ではありますがほぼ2/3ほどができ上がり、今回の合宿ではこれを検討しました。
この作業は聖典のディテールを細心に読み取っていく作業ともいえます。この作業を通じて、聖典に記述されている1つ1つのディテールは、対応経や相応経において実によく一致するし、また1つ1つのディテールはジグソーパズルの1つ1つのピースのように、全体の絵柄の中にきちっと収まることに気づかせられ、感動すらおぼえます。こんなことは聖典全体が歴史的事実を裏打ちにしていなければありえないことでしょう。原始仏教聖典は、釈尊が入滅されてから数百年後に、現在あるように編集されたからといって、けっしてでっち上げの世界が描かれたものではないのです。
われわれは原始仏教聖典の記述をとりあえず、まずは信じてみようという姿勢で出発しましたが、今ではわれわれの方法論は誤っていなかったという確信に変っています。
2016年7月22日付の『中外日報』紙がトップ記事として、われわれの研究を取り上げてくれました。上記を公刊するためには行わなければならない作業がまだまだたくさんありますが、その見出しに「『新しい仏伝』来夏に完成」とありますように、いまこの研究はまさしく最後の追い込み段階に入っているということになります。
ついでながら8月22日は台風襲来のさなかでした。そんななかでも合宿では美味しい魚を満喫しました。難しい細かな、神経をすり減らさなければならないような作業に辟易していたところなので、これでギアはまたフル稼働に切り替わるでしょう。