1月29日(水)に第22回「釈尊伝研究会」を行いました。金子芳夫、本澤綱夫、岩井昌悟、森 章司からの報告がありました。
以下が報告のテーマならびにその内容です。
金子芳夫:「原始仏教時代の通商・遊行ルート」をまとめるためのマニュアル
いよいよ「原始仏教時代の通商・遊行ルート」を地図上に描くための実作業に入ります。そのための(1)基本的な考え方、(2)まとめの手順、(3)検討を要する課題について報告がありました。
現在、約4,800点の原始仏教聖典の通商・遊行ルート記事データが収集されています。このデータは大まかには次のように分類できます。
①「飛行ルート」記事データ:王舎城......舎衛城のようなもの
②「特急ルート」記事データ:王舎城......ヴェーサーリー......舎衛城のようなもの
③「急行ルート」記事データ:王舎城......ナーランダー......ヴェーサーリー......パーヴァー......舎衛城のようなもの
④「各駅停車ルート」記事データ:王舎城......アンバラッティカー......ナーランダー......パータリ村......コーティ村......ヴェーサーリーのようなもの
これら4,800に上る遊行記事データからできるだけ距離の短い2点間資料を探し出して、これを繋げてルートにするというのが基本的な考え方です。
この作業をパソコン上で機械的に処理できるようなシステムを考え、それにのせるためにデータの加工を始めたところです。
本澤綱夫:ヴェーサーリーの仏教
既刊の「モノグラフ」に掲載された論文・資料集や内部資料としての聖典目録・年表などから、「ヴェーサーリーの仏教」に関係するものを抜き出してイメージを作ってみました。そのイメージは次のようになりました。
①ヴェーサーリーを仏在処・説処とする経は全体の3.92%で、舎衛城=66.93%、王舎城=13.84%に次ぐ。
②それにも拘わらず、王舎城・舎衛城あるいはコーサンビーなどに比べると、最初の布教や精舎の建設記事など、格別に顕著な釈尊の事績は見いだせず、またこの地に特別に因縁の深い仏弟子も存在しない。
③この地を舞台とする出来事で比較的顕著なものは、波羅夷罪4条のうちの3条の制定場所であること、マハーパジャーパティー・ゴータミーが最初の比丘尼として出家・具足戒を許されたこと、そして釈尊が入滅直前の最後の雨安居をここで過ごされたことなどである。
④この地は王舎城と舎衛城・釈迦国を結ぶ幹線道路の中継地点にあたり、釈尊や仏弟子たちが各地への遊行の途次にしばしば立ち寄り、仏教もいつの間にか自然に伝わったという印象をうける。
⑤この地はジャイナ教の本拠ともいうべき地であり、仏教は排他的に進出するのではなく平和的に共存した。
⑥この地はリッチャヴィ族、ヴィデーハ族などいくつかの部族からなるヴァッジ共和国の主要な商業都市であり、進取の気性に溢れていたであろうこと。
このような基本イメージを元に、我々の持っているデータをどのように処理すれば「ヴェーサーリー仏教史」を描くことができるか検討することになりました。
岩井昌悟:AvadānakalpalatāのVirūḍhakāvadānaについて
前回の森章司の報告「釈迦族滅亡年の推定」に関連して、森が依頼した標記テキストをチベット訳も参照しながら日本語訳を行っていることが報告されました。
森 章司:「涅槃経」の遊行ルート−−特にガンジス河とガンダック河の渡河地点について−−
釈尊の最後の遊行のルートについて、特に以下の点を報告しました。これは金子の「原始仏教時代の通商・遊行ルート」に関する検討を要する課題の1つとして行ったものです。
①ガンジス河渡河地点は「ゴータマの渡し」と名づけられたところであるが、それは建設中のパータリプトラ城の西の外れのところにあり、ガンダック河がガンジス河に合流する地点よりも上流である。
②釈尊はガンダック河に沿ってその右岸を北上され、コーティ村のナーディカでガンダック河を渡られてヴェーサーリーに入られた。
③竹林村で最後の雨安居を過ごされた後、重閣講堂で3ヵ月後に入滅することを宣言され、来た時と同じようにガンダック河を渡ってコーティ村を通られ、クシナーラーまで遊行された。
④ガンダック河を渡られたところで後ろをふり返り、「これがヴェーサーリーを見る最後だ」と感慨深げに言われた。
これによって王舎城からナーランダー、パータリ村を経由して、ガンダック河の右岸を北上してコーティ村のところでガンダック河を渡ってヴェーサーリーに入るルートと、ヴェーサーリーからすぐにガンダック河を渡って、コーティ村を通ってクシナーラーさらには舎衛城の方に行くルートが存在したことが判りました。
しかし王舎城からパータリ村を経由してヴェーサーリーに行くルートは幹線道路ではなく、もう一つ王舎城からナーランダーを経由して直線的にヴェーサーリーに行く幹線ルートがあったのではないかという予測も立てました。
なおヴェーサーリーと舎衛城を結ぶルートは、ナーディカを仏在処・説処とする経がたくさんあることから、これは幹線道路であって、釈尊もしばしばこのルートを通られたであろうこともわかりました。
上記のほか、「釈尊伝」と「釈尊教団形成史」執筆の構想と担当者について、今後の釈尊伝研究会の運営について、という2つの議題を設定してありましたが、時間切れで次回研究会に回すことにしました。