残念ながらまだ公表の域に達していませんが、「釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録」ができました。「第Ⅰ部 説時による目録」「第Ⅱ部 回想・参考記事による目録」の2部構成になっています。私たちが何をめざしてこれを作ったか、これがどのような内容をもっているか、などをご理解いただくために「凡例」をアップしました。「現地調査報告など」の【文書10】「釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録:凡例」をご覧ください。
「目録」はA4版で第Ⅰ部がちょうど2,000ページ、第Ⅱ部が339ページ、合計2.339ページという大きなものになりました。これには聖典名だけではなく、1つ1つの経の概要やそれがどこで説かれたか、その対応経にはどのようなものがあるか、などが記入されているからです。
「凡例」の一部を引用しておきます。
この目録は、この研究の成果として作り上げた別紙「釈尊および釈尊教団史年表」の年度ごとの事績を時間軸として、その時説かれた経あるいはその事績を回想している経にはどのようなものがあるかということを、経名とページ、その仏在処・説処、概要ならびに対応経を示したものである。したがって本「目録」は「第Ⅰ部 説時による目録」と「第Ⅱ部 回想・参考記事による目録」の2部構成となっている。第Ⅰ部は釈尊の生涯のどの時点において説かれた経にはどのようなものがあるかを示したものであり、第Ⅱ部は釈尊の生涯のどの時点の事績を回想している経にはどのようなものがあるかを示したものである。
たとえば釈尊が80歳の誕生日を迎えられた時に、出家した日のことを回想された経があったとするならば、「80歳の誕生日」の経として配列したものが第Ⅰ部であり、「出家した日」の記事として配列したものが第Ⅱ部であるということになる。
言うなれば「説時」とは、経蔵が「一時(ekaM samayaM)」と示し、律蔵が「その時(tena samayena)」と示す、この「一時」「その時」をさすことになる(1)。しかしながら原始仏教聖典自身は、この「一時」「その時」がいつの時点であるかを特定していないのが常であり、成道直後と入滅直前の事績にそれが明示されているのみである(2)。本研究の最終目的は、これらの「一時(ekaṃ samayaṃ)」あるいは「その時(tena samayena)」がいつの時点であるかを特定して、釈尊の生涯のすべての事績をカバーした伝記を執筆することにあるが、本「聖典目録」はその素材であり、また完璧な釈尊伝を作成するための検証作業であるということができる。
(1)原始仏教聖典は釈尊が入滅されたその年の雨安居に、摩訶迦葉をはじめとする仏弟子の主立った者500人が王舎城に集まって、釈尊の教えのうちの法(経)を阿難が説き、律をウパーリが説いたものを確認しあったものとされているから、理屈の上からいえばこれが「説時」であるともいいうる。しかし阿難もウパーリも、釈尊が在世中のいずれかの時点に説かれたことを復唱したのであり、ここにいう「説時」とはこの釈尊在世中のいずれかの時点を指すと理解されたい。
(2)原始仏教聖典はすべて釈尊の言行録といってよいのであるが、それらは日付の失われた日記帳のようなものであるから、釈尊がどのような事績を残されたのかは詳しくわかっているのに、それを時系列ないしは年齢にしたがって編集できないために、今まで釈尊の全生涯をカバーする伝記というものが存在しなかったのである。仏伝経典と称されるものがあるが、これは釈尊の成道直後(と入滅直前)の、生涯のほんの一瞬間の、ほんの一部の事績を記したものであることはしばしば指摘してきたところである。
なおこれを公表しないのは、われわれが内部資料として蓄積してきたコンピュータ上のデータを生のままで編集したために、特に形式的な面において多くの不備が残されているからであり、また凡例の【2】に記したように、「われわれはこの研究をさまざまな作業仮説を設けて進めてきたので、この目録はその編集を通じてその仮説が正しかったかどうかを検証するという意図をも併せ有している。この研究はほぼ完了したとはいうものの、なお細部の研究や総括・検証の作業が残されており、今後は『釈尊伝研究会』としてこれを継続して行うことになっているので、より完成度の高いものをつくるための作業の一環として制作されたということもできる」からです。
「年表」も含めて、この研究の精度をより高めた上で、いずれは公刊したいと考えております。ご期待いただければ幸いです。