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早朝時分の生活、食事時分の生活、午後時分の生活、夕方時分の生活、夜時分の生活、乞食作法、招待食作法、昼日住(divā-vihāra)、独座(paṭisallāna) |
「はじめに」と「まとめ」の一部を紹介して概要に代える。
本論文は釈尊と出家の仏弟子たちすなわち比丘と比丘尼(原則として比丘に代表させている)の1日を、目次に示したような順序で考察する。まず律蔵の規定から主に仏弟子たちの1日を検討する。律蔵の波羅提木叉の部分は、その生活において踏み外してはならない最低限度を定めたものであって、必ずしも原始仏教時代の仏弟子の生活実態を示しているとはいえないが、犍度部の部分には一人一人の比丘や比丘尼の生活がいかようにあるべきかというモラル的なものが含まれ、しかもそれは細部にわたっているから重要な資料となりうる。
次に経蔵の教えからそれを検討する。これは仏弟子たちのあるべき理想的な生活を理念的に示したものであり、仏弟子のすべてが理想的な生活をしていたということではないであろうから、これもただちに仏弟子たちの生活実態を示したものとすることはできない。しかしながらそれが絵に描いた餅にとどまるならばともかく、仏弟子たちがそのような生活をめざして日々修行していたとするなら、これもまたきちんと把握しておかなければならない。
そして本稿は、以上のような律蔵の規定と経蔵の教えるところを参考にしつつ、原始仏教聖典に描かれている釈尊と仏弟子たちの1日の生活を調査する。とはいいながら律蔵はむしろ特異ケースが取り上げられていることが多いから、原始仏教聖典の中でも経蔵が描く、釈尊や仏弟子たちのさりげない日常生活を調査することが中心となる。経蔵とて文学のように仏弟子たちの「あるがまま」を客観的に描こうとするものではないから、自ずから限界はあるが、筆者の今のテーマからすれば、このような方法をとらざるをえない。
(以上、「はじめに」から)
[1]釈尊と仏弟子たちの1日は、次のような7つの時間帯に分けることができる。
(1)日の出から午前10時半頃に乞食に出かけるまでの早朝時分
(2)乞食に出かけてから食事をし、その後片づけが終わる午後1時頃までの食事時分
(3)食事の後片づけを終えて夕刻までの午後時分
(4)午後時分を終えて日没までの夕方時分
(5)日没から翌日の日の出までの夜を三分した最初の初夜時分
(6)夜を三分した真ん中の中夜時分
(7)夜を三分した最後の後夜時分
そしてこのそれぞれの時間帯には、それぞれ特徴的な生活様態があったから、そこで本稿では、その特徴的な生活様態を含めた時間帯という意味を込めて「時分」ということばを用いたのである。
[2]ところで、それぞれの時分に行われる釈尊と仏弟子たちの生活様態については、第4節においては釈尊の、第5節においては仏弟子たちの、それぞれの時分の生活様態を考察した時に、その時分の考察の最後において簡単にまとめておいたので、それを参照いただくこととして、ここで再びそれを行うことはしない。ただしその生活様態の基本を考えることによってこの論考の総括としたい。
[2-1]まず第1は、それぞれの時分にはそれぞれ特徴的な生活様態があるが、規則としては、食事は夜明けから正午までに摂り、それ以外の時間帯には摂ってはならないという規則と、食事時分以外には村や町には特別な所用がないかぎりできるだけ入らないようにするという規則があるのみであって、これを犯さないかぎりは基本的には何をしても自由であったということである。仏弟子たちは多くの場合は僧院で共同生活をしていたけれども、カトリックの修道院での生活のように、規則によってがんじがらめに縛られていたのではなく、行動の自由が保障されていたのである。また釈尊の教えはきわめて合理的なものであったから、何をしてはならないというタブーというようなものもなかった。したがって自分の意思で、したいことを自由にするというのが基本姿勢であったということができる。
換言すれば、それぞれの時分になされるそれぞれ特徴的な生活様態は、戒律などによって外部から規制されたものではなく、慣習的に形成されたものであって、そのような生活様態を取ることが合理的であったからといってよいであろう。したがってそれらはあくまでもこの時間帯にはこのような行動がなされることが比較的多いという傾向を表わすのみであって、その生活様態から外れてもいっこうに差し支えなかったということになる。
[2-2]第2は、釈尊はもちろん仏弟子たちの毎日の生活は、布薩とか自恣などの定例行事や、特別の議題によって招集されて羯磨を行う時以外は、基本的には個人行動であって、サンガとして行動することも、4、5人が集まって集団行動するということもなかった、ということである。
ただし個人行動といっても、それは一人前の比丘あるいは比丘尼のことであって、共住弟子あるいは内住弟子として、和尚や阿闍梨に依止して生活万般の指導を受けなければならない者は、実際はいつもついて回っているということはなかったけれども、基本的には和尚や阿闍梨の指示に従って動くことになるから、個人行動が認められていないということになる。したがって和尚と共住弟子、阿闍梨と内住弟子の関係にある者たちは、就寝する時以外の時間は、師と弟子が2人で行動するということが多かったであろう。
[2-3]そして第3は、基本的には釈尊と仏弟子たちの生活様態は、教えるものと教えられる者との立場の違いはあったけれども、基本的には差異がなかったということも上げることができるであろう。換言すれば基本的なところでは主従関係というものはなく、釈尊も仏弟子たちも平等であって、弟子たちが釈尊の命令で動くということはなかったということになる。
(以上、「まとめ」から)