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涅槃経 阿闍世王 スニーダ ヴァッサカーラ 霊鷲山 パータリ村 ゴータマ門 ゴータマの渡し ブッダガート ガンガー河 ガンダク河 ヴェーサーリー コーティ村 ナーディカーの渡し アンバパーリ園 竹林村 クシナーラー ガンダク河右岸(西岸)北上ルート ヴェーサーリー渡河ルート |
本稿は「涅槃経」に記された釈尊の最後の遊行の行程、就中パータリ村を出た後にガンガー河を渡ってヴェーサーリーに行かれるまでのルートと、竹林村において雨安居を過ごされてから3ヵ月後に入滅することを宣言され、その後にヴェーサーリーを出てパーリの「涅槃経」では次のバンダ村(Bhaṇḍagāma)に到着されるまでのルートがどのようなものであったかをさぐったものである。
この結論を紹介すると次のようになる。
釈尊は王舎城の霊鷲山で、阿闍世王のヴァッジ国侵攻の可能性についての質問をきっかけとして、釈尊没後のサンガの運営のあり方についての説法をされてから、次の雨安居を過ごす予定のヴェーサーリーに向けて出発された。その時の遊行ルートは、阿闍世王がヴァッジ国との戦争に備えて城を築いていたパータリ村を視察するために、当時は幹線道路ではなかったと思われるパータリ村を通るルートを選ばれた。すなわち釈尊はアンバラッティカーの王の別荘を通ってナーランダーを過ぎたところで、直進するのではなく西北方面へのルートをとってパータリ村に到着された。
そして釈尊はパータリ村を視察された後、建設中のパータリ城の西門を出られ、その近くにあった渡し場からガンガー河を渡られた。城を建設し、渡し場も整備していたマガダの大臣スニーダとヴァッサカーラはこれを記念してこの門を「ゴータマ門」、渡し場を「ゴータマの渡し」と名づけた。「ゴータマの渡し」は今の「ブッダガート」のところに相当し、ここはガンダク河がガンガー河に合流する地点よりも上流にあり、したがって釈尊がガンガー河を渡られた対岸はガンダク河の右岸のガンガー河との合流点近くであったことになる。今のSonpurである。
この後釈尊は「ガンダク河右岸(西岸)北上ルート」をとってガンダク河の右岸を北上され、ヴェーサーリーの対岸にあったコーティ村のナーディカーの渡し場からガンダク河を渡られた。
このガンダク河を渡河された対岸はヴェーサーリー城の西北の郊外にあたり、この辺りにアンバパーリ園があったので、釈尊はヴェーサーリーの市街に入るよりも前にまずこの園に立ち寄られ、遊女アンバパーリーからの食事の招待を受けられた。
この年はヴェーサーリーで雨安居を過ごされる予定であったがあいにくの飢饉であったので、釈尊は弟子たちに銘々知己や親類縁者を頼ってヴェーサーリーの近辺で雨安居するように指示され、自らは阿難と二人でヴェーサーリーの市街を通り抜けて、ヴェーサーリーの南東の郊外にあった竹林村で雨安居を過ごされた。この雨安居に入る時がちょうど入胎から数える釈尊の80歳の誕生日で、このとき瀕死の病に罹られ、入滅の決意を固められた。
釈尊は雨安居を終えると、近辺の弟子たちを重閣講堂に集められ、3ヵ月後に入滅すると宣言されて、クシナーラーに向けて出発された。この時にも来た道を再び通られ、アンバパーリ園のそばでガンダク河を渡って向こう岸のナーディカの渡しに立たれた。そのとき釈尊は後ろを振り向き、河越しに木々の上に見える重閣講堂を眺めながら、名残惜しそうに「これがヴェーサーリーを見る最後だ」と言われた。すなわち釈尊は「ヴェーサーリー渡河ルート」をとられたわけである。
そして今度はコーティ村のところでパーヴァーの方に向けて右折され、ハッティ村、アンバ村、ジャンブ村、ボーガ市を経由してパーヴァーに着かれた。現在の行政区画でいうと、釈尊はガンダク河を渡った後、ビハール州のサラン(Saran)、シワン(Siwan)、ゴーパルガンジ(Gopalganj)の3郡を経由して、現在はウッタル・プラデーシュ州のデオリア(Deoria)郡のパーヴァーに到着されたことになる。パーヴァーでも釈尊はチュンダの供養した食事によって病気になられ、休み休み漸くの体でクシナーラーに到着され、ついにここで入滅された。