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阿難 侍者伝承 釈尊の安居地 スナッカッタ チュンダ沙弥 サマヌッデーサ サーガタ  ナーガサマーラ ナーガパーラ ラーダ ウパヴァーナ ナーギタ メーギヤ マンクラ山 チャーリカー山 三十三天


 釈尊の伝記の再構築のために、もっとも役立ちそうなものが釈尊の雨安居地 伝承である。しかしこれは原始仏教聖典に基づいていないことを【論文5】「原始仏教聖典資料に記された釈尊の雨安居地と後世の雨安居地伝承」において明ら かにした。そこでこの伝承の資料的価値を確認することが必要となるが、そのもっとも有効と思われる作業が、雨安居地伝承が何にもとづいて作られたのか、そ の根拠を明らかにすることである。このような伝承が原始仏教聖典の情報を全く無視するとは考えられないから、これらの雨安居地伝承は原始仏教聖典中のなん らかの情報を根拠に成立したと推測される。それではいったい如何なる聖典中の情報が雨安居地伝承を形成するに寄与したか。本論文はそれを探るための研究の 一つである。 釈尊の伝記の再構築のために、もっとも役立ちそうなものが釈尊の雨安居地伝承である。しかしこれは原始仏教聖典に基づいていないことを【論文5】「原始仏教聖典資料に記された釈尊の雨安居地と後世の雨安居地伝承」において明らかにした。そこでこの伝承の資料的価値を確認することが必要となるが、そのもっとも有効と思われる作業が、雨安居地伝承が何にもとづいて作られたのか、その根拠を明らかにすることである。このような伝承が原始仏教聖典の情報を全く無視するとは考えられないから、これらの雨安居地伝承は原始仏教聖典中のなんらかの情報を根拠に成立したと推測される。それではいったい如何なる聖典中の情報が雨安居地伝承を形成するに寄与したか。本論文はそれを探るための研究の一つである。
 年次を伝える雨安居地伝承では、釈尊の成道後45年間の教導生活の後半20年間ないし25年間が、最後のVesālī近郊のVeḷuva村における雨安居を除いて、すべて舎衛城とされている。一方で原始仏教聖典には阿難が釈尊の侍者を務めた期間も20余年間ないしは25年間とされている。もしこの二つの符合する情報が関連付けられるならば、阿難が釈尊の侍者になって以降は、釈尊は舎衛城のみで雨安居を過ごされたことになる。逆に雨安居地としてBārāṇasī Isipatanaを初めとして、さまざまな雨安居地が挙げられる成道後初期の20年間ないしは20余年間は、阿難が侍者でなかった時代に相応することになる。
 ところで諸々のPāḷiのAṭṭhakathāや『大智度論』などには、阿難以前(あるいは以外)の釈尊の侍者としてNāgasamāla(Nāgapāla)、Nāgita、Upavāna、Sunakkhatta、Cundasamaṇuddesa、Sāgata、Rādha、Meghiyaなどの名が列挙されている。これら阿難以前の侍者たちが登場する聖典の情報が、雨安居地伝承の成立に深く関わっているのではないか。つまり阿難以外の侍者が登場する聖典資料における釈尊の所在が、そこで釈尊が雨安居しているか否かには関係なく、雨安居地伝承の成道後初期の雨安居地とされたのではないかという仮説が立てられる。
 この仮説の立証のために、阿難以前の侍者のひとりひとりについて、聖典中に侍者として登場する際の釈尊の所在を調査して、雨安居地伝承に挙がる地との対応関係を見ようとしたのが本論文であり、以下がその調査結果である。
 阿難以前の侍者の登場する地名は以下のものである。NāgasamālaあるいはNāgapālaが雨安居地伝承の第5年に挙がるVesālīと、第6年に挙がるMaṅkula山に登場する。Sunakkhattaは第5年のVesālīに関係している。Sāgataは複数の地名について関連を指摘でき、第9年のKosambīや第10年のCeti、第2年から第4年の霊鷲頂山、第8年のSuṃsumāragiraと関連している。Rādhaは第6年のMaṅkula山に登場する。Meghiyaは第13年と第18年のCālikā山において釈尊とともに登場する。Nāgitaが侍者として登場するのはVesālīにおいてである。
 結論として、阿難以前の侍者伝承、原始仏教聖典におけるこれら侍者の事績、そして雨安居地伝承というこれら三者の関連を調査してみると、その関連性は区々である。阿難以前の侍者をともなう釈尊の所在と雨安居地伝承中の地名の関連性は、侍者伝承や雨安居地伝承が南伝・北伝で差異がある上に、原始仏教聖典の記事そのものが南伝と北伝の統一を欠く場合も多くあって、どれがどれと関連があり、どれを根拠にしてどの伝承が成立したということを解明することは困難である。
 しかし注目すべき点として以下のことが挙げられる。

 [1]まずは雨安居地伝承に挙がる地でありながら、そこにおける釈尊の雨安居記事が見出されないかわりに、阿難以前の侍者の登場が確認できるケースがあるということである。
 Cālikā山については南伝・北伝両方の雨安居地伝承に挙がりながら、Cālikā山における釈尊の雨安居記事が原始仏教聖典には見出されないため、MeghiyaのCālikā(Cāliya)山における事績は、雨安居地伝承が、原始仏教聖典の釈尊の雨安居記事とではなく、阿難以前の侍者の登場する記事と関連することを有力に示す材料である。
 またSāgataがKosambīとCetiに登場する事績も、一部阿難が登場する資料を含むが、Cetiについて『僧伽羅刹所集経』の雨安居地伝承に挙がるものの、原始仏教聖典に釈尊の雨安居記事が見出せないため、これも阿難以前の侍者と雨安居地伝承の間に関係があることを示す資料ということができる。
 [2]次に、南伝の聖典は南伝のAṭṭhakathāと、北伝の聖典は北伝の伝承と調和するものと予想されるが、そうならずに関係がねじれているケースが見出されることである。
 Nāgasamāla(Nāgapāla)とRādhaがMaṅkula山に登場することは、北伝の原始仏教聖典にのみ確認されて、PāḷiにはMaṅkula山が一切言及されないことから、Aṭṭhakathāの雨安居地伝承にMaṅkula山が挙がることを阿難以前の侍者の登場によって説明するならば、北伝の原始仏教聖典の記事に拠らねばならない。またRādhaはPāḷi中では一度も侍者として示されないにもかかわらず、AN.-A.(ビルマ版)の侍者伝承に挙がっていることは侍者伝承と聖典間のねじれを示す。
 また『根本有部律』においてのみSāgataとSuṃsumāragiraが関連づけられていることも、Sāgataによって南伝の雨安居地伝承にSuṃsumāragiraが挙がることを説明するならば、やはりAṭṭhakathāの雨安居地伝承に北伝の影響があるということになる。
 しかし逆の関係もあり、Nāgitaの登場によってVesālīが雨安居地伝承に挙がる根拠を見出そうとする場合、Nāgitaはパーリ聖典にのみ侍者として登場するから、『僧伽羅刹所集経』の雨安居地伝承にVesālīが挙がる根拠をPāḷiに拠らねばならないことになる。しかしVesālīが雨安居地伝承に挙がる根拠は他の侍者に求めることができるため、この可能性は考慮せずともよいであろう。またNāgitaは北伝の侍者伝承には挙がらない。
 以上のことは南伝のAṭṭhakathā伝承に北伝の伝承が影響している可能性を示すと見なし得る。逆の関係を示す有力な証拠はない。なおMaṅkula山も、原始仏教聖典に釈尊の雨安居記事を見出せない地であるため、阿難以前の侍者と雨安居地伝承との間に関連があることを証明する有力な材料であることを付け加える。
 [3]なお王舎城やVesālīのように、釈尊の雨安居記事が聖典中に見出されるゆえに雨安居地伝承に挙がる根拠をあえて阿難以前の侍者にもとめる必要のない地についても、阿難以前の侍者の登場が、雨安居地伝承において成道後初期におかれる理由と見なし得る。これにはSunakkhattaの言及がVesālīに集中していること、Soṇa-kolivisaの因縁譚におけるSāgataの王舎城における登場、もう一つは侍者として『毘尼母経』にのみ挙がる迦葉を挙げることができる。
 [4]以上の検討によって、雨安居地伝承の根拠の一つとして阿難以前の侍者が関係していると結論を下すことは可能であろう。逆に言えば、われわれが当初予想していた、原始仏教聖典中に記される「その時、釈尊は某処で大比丘衆とともに雨安居を過ごされていた」といった形で表現される釈尊の雨安居記事がこの雨安居地伝承の根拠になっているという可能性が少ないことが確認されたということである。
 [5]また雨安居地伝承は単に雨安居地のみではなく、雨安居の年次の情報をも含んでいる。侍者伝承において侍者の名が列挙される順番と雨安居地伝承の年次の情報の間には、何らかの関連がある可能性も予想されるが、侍者伝承において侍者の挙がる順番に統一が見られず、明確な判断を下すことは困難である。

 Aṭṭhakathāと『僧伽羅刹所集経』の雨安居地伝承は先に掲げた通りであるが、以上によってその伝承の由来が解明されたものとすると、残る地名は以下のものとなる。ただし成道第1年のBārāṇasīと最後のVeḷuva村は除外する。

Aṭṭhakathā 『僧伽羅刹所集経』
第07年 Tāvatiṃsabhavana 三十三天
第10年 Pārileyyaka
第11年 Nālā brāhmaṇagāma 鬼神界
第12年 Verañjā 摩伽陀閑居処
第13年 鬼神界
第14年 Jetavana 祇園精舎
第15年 Kapilavatthu 迦維羅衛国
第16年 Āḷavī 迦維羅衛国
第17年 Rājagaha 羅閲城
第18年 羅閲城
第19年 Rājagaha
第20年 Rājagaha 羅閲城
第21年 以下常にSāvatthī
第22年 鬼神界
第23年 鬼神界
第24年 鬼神界
第25年 鬼神界
第26年 以下舎衛国

 上記のうち『僧伽羅刹所集経』の挙げる「鬼神界」はSuṃsumāragiraとの同一地である可能性もあるが明確ではなく、より詳細な検討は断念せざるをえない。
 また三十三天で雨安居されたという伝承は、現在においては広く知られるようになっているが、Pāḷiには見出されず、南伝ではAṭṭhakathāになってようやく現れる特異な伝承である。釈尊伝を考える上で際立った伝承でもあり、これが成道後初期の舎衛城以前に置かれる根拠など、別個に検討しなければならない問題が残っている。
 また祇園精舎が第14年に挙げられるのは、これが舎衛城への仏教布教の初めの年に相当する。原始仏教聖典において、祇園精舎は釈尊が初めて舎衛城で雨安居を過ごすために建立されたとするからである。ただしこれがなぜ第14年とされるのかということについては、別途に考察しなければならない。
 その他のAṭṭhakathāが伝える雨安居地で今回の作業によって確認されなかった地名は、Pārileyyaka、Nālābrāhmaṇagāma、Verañjā、Kapilavatthu、Āḷavī、Rājagahaである。このうちKapilavatthuやRājagaha、あるいはPārileyyakaとVerañjāについては、その年次は問題であるが、すでに「モノグラフ」第6号【論文5】で紹介したように、原始仏教聖典中の釈尊の雨安居記事が根拠になっていることは明かである。
 残るは、雨安居地伝承に挙げられながら、原始仏教聖典に釈尊の雨安居記事がないNālābrāhmaṇagāmaとĀḷavīである。これについては別途考察してみたい。