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提婆達多 デーヴァダッタ 阿難 破僧 デーヴァダハ スバッダカッチャーナー 交叉いとこ婚 阿闍世 五事 地獄


 本論文は釈尊に反逆し教団をのっとろうとした、仏教史上の悪人を代表する人物として伝えられてきた提婆達多(Devadatta)の生涯と事績とその破僧の顛末を、パ・漢にわたる原始仏教聖典と注釈書文献に基づいて調査・考察したものであって、以下がその結論である。
 提婆達多の出自については北方伝承と南方伝承では異なる。北方伝承では提婆達多は阿難と兄弟であって、父親は浄飯王の弟の誰かとされるから、釈尊とは父方の従兄弟ということになる。しかしながら南方伝承では、提婆達多は釈尊の妻の弟でデーヴァダハの出身であるが、母親は浄飯王の妹であるから釈尊とは義弟であって、母方の従兄弟でもあることになる。もちろんこのどちらが史実に近いかは分からないが、兄弟である阿難と同時に出家することは考え難い上に、釈尊のサンガを譲れと要求したことなどを総合的に考えると、阿難との兄弟関係を認めずに、釈尊の義弟であるとする南方伝承の方が合理的に理解できるので、本論では南方伝承の方がより史実に近いのではないかと考える。
 彼の出家以前の幼少青年期の事績は、【資料集3】の「仏伝諸経典および仏伝関係諸資料のエピソード別出典要覧」に記したように、説話的なものしか残されていない。それは妻選びなどにからんで釈尊と技能において拮抗したという内容であるが、釈尊と提婆達多とは25歳ほどの年齢差があったと考えられるから、そのようなことはあり得ない。
 20歳に達したころ、提婆達多はアヌルッダ、バッディヤ王、阿難、キンビラ、バグそれにウパーリなどと一緒に出家した。その頃釈尊は成道後10年くらい経過して、45歳前後になられていた。そのころは、釈尊の弟子たちが三帰具足戒でそれぞれの弟子を取ることを許されていて、提婆達多も阿難も釈尊から直接に善来比丘具足戒で比丘となったのではなく、その名は詳らかにしないが、おそらくは三迦葉の仲間であったと考えられる比丘を和尚として出家したものと考えられる。
 出家して10年間は和尚(upajjhāya)に依止して内住弟子(saddhivihārika)として過ごさなければならないという規定にもとづいて、提婆達多はおそらく12年間ほどは善心に修行したものと考えられる。和尚は頭陀行者的な修行者であったから、提婆達多もどちらかといえば苦行的な修行をしたであろう。そして彼の努力が実って、次第にその名がインド社会に広まることになった。それは師匠のもとを離れてから9年ほどたったころである。
 そうして彼は王舎城にやって来て、新興のマガダ国の王子であり、父王から王権を簒奪したいという野望を持っていた阿闍世に引き立てられることになった。彼を悪人に仕立て上げるという意図を持っている原始仏教聖典では、そのために提婆達多は阿闍世の唾まで飲んだという伝説を作り上げた。その時阿闍世はまだ20歳前後という若さで、提婆達多は41歳になっていた。
 王舎城の政治的・宗教的状況は、ビンビサーラと釈尊のペア、阿闍世と提婆達多のペアに分かれてあい拮抗するような状況となった。あるいは阿闍世と提婆達多の方にはジャイナ教の勢力が加担する形になっていたかも知れない。
 このようにして次第に勢力を蓄えた提婆達多は、その6年後、すなわち釈尊が72歳、提婆達多が47歳の時にいよいよ行動を起こした。釈尊の指導下にあって、おそらく舎利弗と目連もそのメンバーであった王舎城の比丘サンガをも、ガヤーに本拠を置いていた提婆達多の傘下に取り入れたいと、釈尊が老齢になられたことを口実にサンガの委譲を要求したのである。しかし釈尊はそれを一言のもとに拒絶された。そのうえに提婆達多を破門する公示のようなものまでが出されてしまったために、提婆達多の方から和解する可能性が断たれ、破僧のやむなきに至ることになった。
 提婆達多側の破僧の名目は「五事」であって、それはむしろ古い仏教の修行者が尊んでいた苦行的な生活法であり、提婆達多としては民心を自分の方に引きつける材料にもなりうるものであった。あるいは提婆達多としてはそれは本心からのものではなかったかも知れないが、しかし形式上は彼自身もそういう生活をしていたのである。一方の釈尊の指導下にあったグループは、釈尊自身の中道的・合理的な指導のもとに、その修行方法は徐々にゆるやかになりつつあった。
 王権をめぐる権力闘争の方は、阿闍世が王舎城の支配権を握ることになった。一方の仏教教団の方はその教団の創始者であるという強みがあるとともに、三宝帰依具足戒や十衆白四羯磨具足戒法で比丘となった新しい修行者が増えてきていて、古い苦行的な修行は好まれなくなっていた。そこで釈尊グループの方が多数派を占めることになり、提婆達多の破僧は失敗に終わった。
 われわれが今持っている原始仏教聖典は、この釈尊教団を継ぐ者たちによって編集されたものであるから、その対立者である提婆達多は極悪人としてのレッテルが貼られ、その一派も教団史から抹殺されることになったが、実際には連綿とし生き続けたのであって、それが法顕や玄奘・義浄などの記録に残された。