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雨安居 雨安居地 アッタカター 僧伽羅刹所集経 八大霊塔名号経 マンクラ山 摩拘羅山, シュシュマーラギリ, チャーリカー, パーリレッヤカ,


 原始仏教聖典(ニカーヤ、漢訳諸阿含、諸律蔵)データによって釈尊の伝記を再構成し、できうれば釈尊年譜を作りたいという我々の試みにとって、35歳で成道した釈尊が80歳で入滅されるまでに、45回の雨期(雨安居)をどこで過ごされたかはその基本的な枠組みとなる。聖典には釈尊が「どこで」「だれに」「どのような説法をされた」かが詳しく記されているのであるから、釈尊が第何年目の雨期をどこで過ごされたかが明らかになれば、芋づる式にさまざまな事柄がわかってくる可能性が存するからである。
 そしてまさしく上記の情報を伝えてくれている伝承がある。我々が「雨安居地伝承」と呼ぶその伝承は、南伝系の文献であるAṅguttara nikāyaのaṭṭhakathāやBuddhavaṃsaのaṭṭhakathāの他、近代の書物ではR.Spence HardyのA Manual of Buddhism, P.BigandetのThe Life or Legend of Gaudama,The Buddha of Burmeseと、北伝系の文献である『僧伽羅刹所集経』、『仏説十二遊経』の中に紹介されているもので、成道後第1年はバーラーナシー、第2~3年は王舍城といったように、釈尊が第何年の雨安居をどこで過ごしたかを伝える。その他、王舍城で5回、ヴェーサーリーで1回というように年次ではなく、ある場所における釈尊の雨安居の回数を記す伝承もあり、南伝ではDhammapadaのaṭṭhakathā、北伝では『仏説八大霊塔名号経』、BustonのChos Fbyung(プトンの『インド仏教史』)の中にそれが記される。
 しかし残念ながら、それらは我々がそれを基本的データにしようとしている「原始仏教聖典」と呼ぶ文献ではなく、後世に成立した注釈書文献であって、しかも諸伝承間に異同があって、これらに無批判に従うことはできない。そこで本論文では、以下のような調査を行った。
(1)雨安居地伝承の諸ヴァリエーションを整理して、地名の異同にどのような関係があるか。
(2)原始仏教聖典の記事から釈尊がある地で雨安居を過ごしている、または過ごしたと解釈される記述を最大限に収集して、それと雨安居地伝承の地名とはどのような関係にあるか。
 その結論は、次の通りである。
(1)雨安居地伝承の諸ヴァリエーションの地名に相違があるもののいくつかは、実は翻訳上の、あるいは表記上の相違であって、南伝と北伝とが無関係に成立したものではないということ。
(2)原始仏教聖典に記された雨安居地が雨安居地伝承に挙がらないケースがあること、また雨安居地伝承に挙がる地名の中のいくつかについては、聖典中にそこで釈尊が雨安居を過ごされたとする記事が見出されないこと、さらに聖典から知られる釈尊の雨安居時の事績を、雨安居地伝承に従ってその年次に当てはめると矛盾が生じることなどから、この伝承が原始仏教聖典の記述をもとにして成立したのではないということ。
 しかしながらこの作業を通じて、さらに次のような作業を行う必要があることが明らかになった。1つは、原始聖典に記された雨安居地のより高い精度の検討である。このためには一つ一つの記事の漢・パの対応関係とともに、例えば記事内容が同じでも雨安居地が異なる場合などには、その蓋然性を検討しなければならないということである。これは原始仏教聖典の記事そのものの信頼度の確認作業といってよいであろう。第2は、後世の雨安居地伝承が何を基にして形成されたのかを解明することである。これはこの伝承の信頼度の確認作業といってよいであろう。そしてこの作業は、われわれが釈尊の伝記の再構成を行う際に、これを使ってよいかどうかの決め手になるであろう。