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本論文は、この研究の目的と基本的な方法論ならびに資料論を記したものである。
周知のように釈尊の生涯と釈尊時代のサンガがどのように形成されたかということは未だ詳らかにされていない。「仏伝経典」と呼ばれるものはきわめて不完全な釈尊の伝記しか伝えないし、サンガの組織やその運営方法についてさえ、ほとんど研究が進んでいないからである。
しかるにこれらを明らかにするための材料は決して少なくはない。膨大と呼べるほどの原始仏教聖典が残され、それらはまさしく釈尊の行状記や釈尊のサンガについて記されたものであるからである。
ところがこれらには「どこで」「誰が」「何を」したかということは詳細に記されているに拘わらず、「いつ」に関してはすべてが「ある時」で処理されているために、これらの豊富な材料を時系列にそって配列し、釈尊の生涯やサンガ形成史として編成し直すことを妨げているのである。仏伝経典はこれらの中から、それが何時のことかが自ずから明かな仏の成道直後の記事と、入滅の際の記事を抜き出して釈尊の伝記として編集したものにすぎず、釈尊の活動の大部分はすっぽりと抜け落ちているのである。
またサンガについても、「律蔵」というかけがえのない文献を有しながら、その正確な理解すらなされていない状態であるから、サンガの実態がどのようなものであって、それがどのように形成されたかというところまではとても研究が及びえなかったのである。
しかしながらこれらの文献には手がかりが残されていないわけではない。例えば「沙門果経」には、阿闍世はマガダの「王」として登場するが、多くの経典は「王子」として登場する。また提婆達多の破僧を記述する文献は、まさしくこの「王子」が「王」となる場面を描いたものである。したがって「沙門果経」は破僧事件以降の事績を、王子として登場する経はそれ以前の事績を記したものということになる。また祇園精舎は給孤独精舎によって建設されたが、この時コーサラ国王の波斯匿は未だ仏教信者になっていなかった。したがって祇園精舎を舞台にする経典や、熱心な仏教信者としての波斯匿王が登場する経典は、それ以降のことであるということになる。
また具足戒法は、善来比丘具足戒、三帰依具足戒、十衆白四羯磨具足戒、地方の特例としての五衆白四羯磨具足戒と変化し、女性の出家も許されるようになったが、これはサンガの諸規則が整備され、サンガが形成されていった歴史を表しているのである。
このように膨大な原始仏教聖典の1つ1つには、直接にそれが何時の時点のことであったかは示さないとしても、研究が進めばそれが明らかになってくるであろうと期待される記事や、少なくとも順序次第を示してくれるなにがしかの情報を含んでいるのであって、いわばこれらは日付を失った日記帳のようなものであるということができる。この研究は推理小説の探偵のように、このような情報を細かく収集し、それを分析し、整理・検証して、いったんすべての経典と律蔵の記述を時系列にしたがって配列しかえた「時系列にしたがって配列した原始仏教聖典目録」を作成し、しかる後に釈尊の伝記を書き、サンガの形成史を明らかにしようとするのである。
しかしながら原始仏教聖典の記している記事の中には、後世に形成された伝承やこれらの文献が制作された時点の事象が紛れ込んでいる可能性があり、したがって原始仏教聖典の記す記事がすべて史実であるとはいえない。そこで史実としての釈尊の生涯や釈尊教団の形成史を究明するためには、その記事の裏を取らなければならないということになるが、それは今となっては至難の業である。そこでとりあえずこの研究では、原始仏教聖典を編集した編集者たちが持っていたであろうところの釈尊の生涯に関するイメージと、サンガ形成史に関するイメージを再現するということを当面の目標とし、それが歴史的事実であるかどうかの検証は別の課題とする。したがって本研究が用いる文献はもっぱら仏教文献であって、原則としてジャイナ教やヒンドゥー教などの他教の文献は用いない。
また我々が「原始仏教聖典」として扱うものは、パーリ語の5NikāyaとVinaya、および漢訳の四つの阿含経と『四分律』などの律であって、この中から明らかに新しい成立で、伝説に彩られる部分が多いパーリのKhuddaka-nikāyaに含まれるVimānavatthu、Petavatthu、Apadāna、Buddhavaṃsa、Cariyāpiṭakaなどや、漢訳の『根本説一切有部律』などを除外したものである。一般的な見解に従えば、このなかにも新古の層が含まれるが、われわれはそれを区別せず、すべて同列のものととらえた上で、特にパーリ文献と漢訳文献に共通する記述をもっとも尊重し、これを第1次水準資料として扱う。これが原始仏教聖典の編集たちが持っていたであろう、最大公約数的な釈尊の生涯とサンガに関するイメージであろうと考えるからである。要するに文献によって扱いを変えるのではなく、そこに含まれる情報の質によって扱いを変えようというわけである。
次にはパーリ文献のみが伝え、漢訳文献とは共通しない記述を第2次水準資料として扱う。漢訳文献はさまざまな部派が伝えたものであるが、パーリ文献は南方上座部という1つの部派が伝えたものであるから、1つのイメージを伝え比較的矛盾するところが少ないと考えるからである。そして漢訳文献のみが伝える記述は第3次水準資料として用いる。
もちろんVimānavatthuや『根本説一切有部律』などを研究対象から除外しているわけではなく、これらと仏伝経典やaṭṭhakathāなどの注釈書文献が伝える記述は第4次水準資料として扱う。当然のことながらこれらは、パーリや漢訳の原始聖典を材料にして作られているのであるから、第1次水準資料や第2次水準資料と同じ情報である場合も多い。したがってこれらの情報が第1次水準資料や第2次水準資料であるならば、これらも第1次水準資料・第2次水準資料となるわけであって、これらのみにしか記述されない記述が第4次水準資料となるわけである。
上述した資料の扱い方を図示すると次のようになる。
そして本研究では、上記のような文献に記される膨大な情報をコンピュータにデータとして蓄積することを基礎作業と位置づけ、5人の研究者と延べ十数人に上る研究補助者が7年を費やして、今ここにようやく論文を制作できる段階にこぎつけた。膨大な量の情報から欲しい情報を瞬時に取り出し、分類し、順序を並べ替えてくれるコンピュータが身近なものになったからこそ行いうるようになった研究であるということができる。
本研究は上記のような目的を、上記のような方法論と資料論に基づいて達成しようとするものである。