[目次]
はじめに
【1】祇園精舎の建設と波斯匿王
【2】波斯匿王の仏教帰信を物語る伝承
【3】サンユッタ・ニカーヤ「コーサラ相応」に見る波斯匿王
【4】波斯匿王の仏教信仰
【5】波斯匿王とマッリカーの結婚
結 語

[論文の概要]
 釈尊と同年配であった波斯匿王がいつごろ仏教に帰信して、その仏教信仰の実態がどうであったかということを、祇園精舎の建設、波斯匿王の仏教帰信を物語る伝承、サンユッタ・ニカーヤ「コーサラ相応」、その夫人の1人であったマッリカーとの結婚などとの関連において論究したもので、その結論は以下のとおりである。

 以上波斯匿王の仏教帰信の時期と、その後の信仰活動がどのようなものであったかを調査し、若干の考察を加えてきた。
 その結果、マガダ国のビンビサーラ王と並んで波斯匿王は、仏教教団のごく早い時期に熱心な仏教信者になって、外護者として仏教教団に多大の貢献をなしたと考えられているが、しかし実際は仏教信者になったのはかなり後のことであり、しかも長い間余り熱心でなかったであろうということが明らかになった。
 波斯匿王が釈尊と同い年であったとして、歴史的な要点を摘記すれば次のようになる。
 舎衛城に祇園精舎が建設されたのは、釈尊成道14年、釈尊49歳のころであり、その時初めて釈尊も舎衛城を訪れられた。それ以前にはコーサラ国には仏教は伝わっていなかったから、これが仏教の初伝である。それから3、4年経った波斯匿王が53歳のころに、王はマッリカーを後宮に入れることになった。マッリカーもその時点では釈尊を知らなかったが、やがて熱心な仏教信者になり、その影響で波斯匿王も形式的に仏教に帰信することになった。やがて夫婦の間には娘Vajīrīが生まれた。
 波斯匿王はそれ以降も必ずしも敬虔な仏教信者ではなかったが、72歳ころにマガダ国の阿闍世王が父のビンビサーラから王位を奪い取るという事件があり、それを契機として戦さが起こった。この戦さは一進一退であったが結局は和平がもたらされ、その過程でVajīrīは阿闍世の妻として迎えられることになった。またこのころにマッリカーは女児を産んだが、かなりの高齢になっていたこともあって、これによって命を落としたのかも知れない。その時には波斯匿王も70歳を過ぎ、人生の無常を悟って、仏教にも深い信仰を持つようになっていたのであろう。80歳といえば釈尊の入滅された年であるが、波斯匿王もその歳になって、釈尊に深い敬虔の念を覚えるようになっていた。王園精舎の寄進もこれからさほど遡らないときであったのではないかと考えられる。
 このように波斯匿王はさほど熱心な仏教信者ではなく、したがってコーサラ国においてはそれほど仏教は隆盛にはならなかったのではないかと考えられるのであるが、それにしては冒頭に記したように、なぜあれ程コーサラや舎衛城を舞台にする経が多いのかが不思議である。あくまでも推測にしか過ぎないが、それは次のような理由によるのではなかろうか。
 まず経典はすべて口伝えに伝えられたものであるが、それらは第一結集において確認されたものがもとになっていることは歴史的事実として承認してよいであろう。そしてそもそも第一結集は釈尊入滅の年に生存していた仏弟子たちが行ったものであるから、その時点までに死没した直弟子たちは参加していない。現存する原始仏教聖典において、初転法輪において最初の弟子となった五比丘たちの影が薄いのもそのせいであろう。とするならば比較的晩年の釈尊の事績が多く聖典のなかに残されているであろうことが推測される。
 ところが釈尊の晩年には、それまでの仏教教団の一大基地であったマガダ国に政変が起こり、釈尊教団にたいへん信仰が篤かったビンビサーラが王位を追われて、むしろ釈尊に反逆した提婆達多に味方した阿闍世王が主権を握ることになった。しかしちょうどその頃から、波斯匿王が仏教に大変理解を示すようになって、一気にその中心地がマガダからコーサラにシフトされることになった。もちろん舎衛城の仏教には、給孤独長者やヴィサーカー・ミガーラマーター(鹿子母)などの商人階級の熱烈な支持も預かって力があったことはいうまでもない。
 しかも第一結集で釈尊の言行録が確認されたときにも、その場所を詳らかにしないものがあって、それは六大城あるいは八大城に仮託されたとされる(1)。おそらくその多くはその時点で仏教の勢いのあった舎衛城とされて、これによっても舎衛城を舞台とする経が大多数を占めるようになったのではないであろうか。
 このように考えると、現存の経の中でコーサラ、あるいは舎衛城を舞台とする経が多いほど、コーサラないしは舎衛城が仏教教団に占める位置が大きかったとは考えにくい。それはこの第一結集が王舎城で行われ、その理由は500人もの多くの比丘が3ヶ月もの雨安居を過ごすのは王舎城しかなかったとされることに、何よりも象徴的に示されている(2)。

(1)『十誦律』大正23 p.288中、『根本有部律』大正24 p.328下、『僧祇律』大正22 p.497上
(2)Vinaya vol.Ⅱ p.284、『四分律』大正22 p.967上、『五分律』大正22 p.190下、『十誦律』大正23 p.447下、『僧祇律』大正22 p.490下

 本論文は、北海道印度哲学仏教学会の編集・発行にかかる『印度哲学仏教学』第21号(平成18年10月30日発行)に掲載されたものを、編集者の許可を得てここに転載させていただいたものである。記して謝意を呈します。
 なお転載に際してもとの形式が崩れておりますので、引用・参照される場合は元誌をご利用下さい。